
群馬県群馬郡金古町(現・高崎市)で生まれた。高崎中、一高、東京帝国大法学部を卒業した。高等文官試験に合格し、大蔵省に入省した。1948年の昭和電工事件では、主計局長であった福田が逮捕された。無罪であったが、大蔵省を退官した。
1952年、衆院選で初当選した。
1960年、自民党の政調会長に就任する。高度経済成長政策を掲げる池田内閣を批判し、党風刷新連盟(のちの清和政策研究会)を結成した。
1970年、佐藤栄作の後継を巡って田中角栄と対立した。田中は「日本列島改造論」を唱え、積極財政・高度経済成長路線を主張した。福田は財政均衡・安定的経済成長を主張した。田中が病に倒れる1985年まで角福戦争が続いた。
1976~78年、政権の座にあった。
1990年、長男の福田康夫を後継とし、政界を引退した。
67代首相
1976年、福田内閣が発足した。
同年、バングラデシュのダッカで日航機がハイジャックされた。福田は「人命は地球より重い」として犯人側の要求を受け入れた。「テロに屈した」との批判に甘んじた。
1978年、日中平和友好条約に調印した。
同年、自民党総裁選予備選で、田中が支持する大平正芳に候補に敗れた。「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはある」と語り、本選出馬を辞退した。
四十日抗争
1979年、自民党は衆院選で敗北した。その責任をめぐって、主流派(大平派・田中派)と反主流派(福田派・三木派・中曽根派)が対立した。
1979年、衆院選で大平首相が一般消費税導入を訴えたため、自民党は過半数割れ・敗北を喫した。反主流派が首相退陣を求めたが、主流派が続投で譲らず、大平、福田の両名が首相指名選挙に出る異例の事態となった。衆院選敗北から第2次・大平内閣発足までの争いを四十日抗争という。
1980年、野党が内閣不信任案を提出した際、反主流派が本会議を欠席し、不信任案は可決された。大平内閣は衆議院を解散し(ハプニング解散)、衆参同日選挙となった。選挙中に大平が急死し、自民党は衆参で安定多数を得た。
上州戦争
群馬3区には福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三の首相経験者と社会党書記長・山口鶴男がいた。選挙時、福田は懐石料理、中曽根は西洋料理、資金不足の小渕はおにぎりを有権者にふるまったので、「福田料亭・中曽根レストラン・小渕飯場」と揶揄された。公職選挙法が厳しくなかった時代の話である。
とくに、福田と中曽根の戦いは上州戦争とよばれた。福田は1972年の自民党総裁選で有力であった。だが、中曽根、小渕が田中を支持し、福田は首相になれなかった。19◆年の衆院選では、現職首相・中曽根が福田に敗れている。
1996年に小選挙区制が導入され、旧3区は4区と5区に分割された。福田が4区、小渕が5区、中曽根は比例北関東終身1位とされた。だが2003年の衆院選の際、自民党総裁・小泉純一郎が比例代表73歳定年制を導入し、中曽根を外した。中曽根は「政治的テロ」と抵抗したが、引退を余儀なくされた。
関連事項 日中平和友好条約 田中角栄 中曽根康弘 福田康夫 三浦弘之
